ライオンズ監督列伝~変革期から飛躍の時へ
伊原春樹がライオンズの監督に就任したのは2002年だった。前年までのライオンズは放任主義の東尾修が率いており、伊原野球の緻密さはチームカラーをガラリと変えた。その伊原監督は東尾監督時代、コーチとして仕えていた。だが東尾野球とは反りが合わず、99年オフに解任されている。伊原監督が目指したのは、広岡監督・森監督が作り上げた緻密な西武野球だった。無駄な失点を1点でも多く減らし、少ないヒットで確実に点を取りに行く野球だ。
伊原監督が誕生した経緯は、伊東勤捕手の現役続行にあった。西武球団は東尾監督の後任には伊東勤を据えたいという考えがあった。だが伊東捕手は現役にこだわり、監督就任だけではなく選手兼任監督の申し出も断った。ここで西武球団は山崎裕之氏に監督要請を出したと言われている。これまでも幾度となく山崎裕之氏に監督・コーチ要請を出してきた西武だったが、しかし家族を最優先に考えたいという山崎氏を翻意させることはできなかった。そこで白羽の矢が立ったのが伊原春樹だった。だが伊原春樹の監督就任は、伊東勤捕手が引退するまでの暫定措置でしかなかった。
伊原“暫定”監督がライオンズを率いたのは、伊東監督が誕生するまでのわずか2年間だけだった。1年目の2002年はぶっちぎりでパ・リーグを制覇し、2年目も2位ながらも好成績を残した。だが2002年の日本シリーズは巨人相手にまさかの4戦4敗という結果に終わっている。その理由は「5番和田」へのこだわりだった。
2002年に捕手から外野一本に絞った和田一浩選手は、5番に定着し素晴らしい成績を残した。だが日本シリーズではまったく打てずの15打数ノーヒット。このシリーズでの敗戦後、伊原監督は「和田以外に5番を任せられるやつはいなかった」と言い残している。
確かにこの年以降、和田選手は不動の5番打者へと成長を果たした。しかしシーズンとシリーズとでは戦い方がまったく異なる。シーズンと同じ戦い方をしてしまっては、シリーズではなかなか勝てない。ましてや調子の悪い選手を起用し続けてしまっては、復調する前にシリーズは終わってしまう。結果的に伊原監督は、長期戦には強いが短期決戦では勝てない監督のまま、ライオンズを去っていった。
ちなみに伊原監督も周囲との衝突が絶えない人物だ。西武では東尾監督とぶつかり、阪神では野村克也監督とぶつかった。また監督としても、デニー友利投手ら一部の選手にチャンスを与えようとせず、反発を受けた。さらには2002年オフ、そのデニー友利投手を古巣横浜に放出してしまった。
伊原春樹監督の後任を務めることになったのは、規定通り伊東勤だった。2003年を限りに現役を引退すると、すぐに監督に就任することとなり、引退後即監督に就任したのはプロ野球歴代6人目だ。伊東監督も、広岡・森両監督の野球を知るだけに、緻密な野球を好んだ。だが緻密さだけにこだわることはなく、時には個性を活かした選手起用も行っていたように見える。
伊東監督の最大の功績は、監督1年目に中島裕之選手を7番ショートで使い続けたことだろう。ライオンズは前年オフに松井稼頭央選手がFAでメジャー移籍を果たしており、ショートのポジションがポッカリと空いた状態だった。監督就任時はこの穴をどう埋めるかが最大の課題とされていたが中島選手の成長もあり、松井稼頭央選手の穴を感じさせない戦い振りを見せることができた。
ただ、それでも伊東監督が目指した野球とは程遠かったという印象を筆者は持っている。その理由は守備力だ。伊東監督が就任したライオンズはファーストにカブレラ選手、ショートに中島選手、サードにフェルナンデス選手が入り、内野で守備が計算できるのはセカンドの高木浩之選手のみだった。今でこそ中島選手は素晴らしい守備を魅せられるようになったが、2004年の段階ではまだショートストッパーとしては荒削りだった。
伊東監督は最終的に、2004年~2007年まで指揮を執った。しかしパ・リーグを制覇することは一度もできなかった。2004年には新人監督ながら日本一を達成したが、しかしこれはシーズン2位からプレーオフで勝ち上がってのものだ。そう考えると伊東監督はライオンズでは、根本監督以来のパ・リーグ制覇できなかった監督ということになる。
しかし伊東監督はチームの受難時代を率いていた。まず自らの引退により正捕手がいなくなり、松井稼頭央選手のメジャー移籍によりショートストッパーと3番打者を同時に失い、4番のカブレラ選手を怪我で欠き、絶対的守護神の豊田清投手を失い、セットアッパー森慎二投手もいなくなってしまった。これだけ一気に主力選手を失ったのは、東尾監督の就任時と重なる。
だが補強により自分の理想とするチームを作り上げた東尾監督に対し、伊東監督はなかなか自分の色を出すことができなかった。その理由は伊東監督の“頭脳”にあったと筆者は考えている。ある程度野球を知っているファンであれば、中継を見ているだけでもその監督がどのような野球を目指しているかが分かるようになってくる。だが伊東監督の場合、それが明確に見えてくることがなかった。
恐らく当時の選手の中でも、伊東監督が目指そうとした野球を理解していた選手はほとんどいなかったと思う。監督の意志が選手に伝わらないと、選手はどこを目指して頑張ればいいかが分からなくなってしまう。実力はあるのに、それを発揮し切れない状態となってしまうのだ。これが極限となってしまったのが、5位に沈んだ2007年だったと筆者は考えている。もちろん怪我人が続出したという現実もあるが、それ以上にチームが一枚岩になっていなかったと当時筆者は感じていた。
伊東監督は決して饒舌なタイプではない。その影響もあり、ややコミュニケーションが不足してしまったことが2007年の敗因だったのかもしれない。そして26年ぶりのBクラスに沈むとその責任を取り、伊東監督は2007年限りで監督を辞任した。
その後伊原監督は、原監督に招聘されて巨人のヘッドコーチとなり、伊東監督もやはり原監督に呼ばれて、WBC日本代表の総合コーチを務めた。伊東監督は現在は評論活動を行っているが、筆者としてはぜひヘッドコーチとして渡辺監督を支えてもらえたらと考えている。伊東監督は監督としてよりも、コーチとしての方がその才を発揮できるのではないだろうか。
伊東監督の辞任を区切りに、ライオンズはまた1つの時代を終えた。そして現役時代は新人類と呼ばれ、広岡監督の選手管理に誰よりも反発した渡辺久信が伊東勤のあとを継いだ。チームカラーも一気に変わった。2007年までの西武ライオンズと、2008年からの埼玉西武ライオンズとでは、まるで違うチームとなった。チームの雰囲気は一気に明るくなり、渡辺監督の尽力もあって女性ファンも急増した。観客動員数も年々増え続けている。
その渡辺監督も今季は3年目となり、いよいよ監督としての正念場ということになる。数名の怪我人は出ているものの、戦力的には2009年よりは充実している。再びBクラスに転落することは決して許されないだろう。開幕戦は3日後に控えている。もしこのまま終わってしまっては、2008年の優勝はまさにフロックとされてしまう。そうさせないためにも、今年は是が非でも優勝してもらいたいと切に願っている。

2010年03月17日 01:07

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