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小岩ジェッツ

もしもあの鳥になれたなら第2章 -2-

「大丈夫です。それに、もうモップピッチャー(敗戦処理投手)には戻りたくないですからね。せっかくの先発マウンドを人に譲る気はありません」
恒は三塁側ダッグアウトの前まで歩いて来ると、スタンドの最前列で息を呑み心配そうな表情で座っている永美と啓太に目をやった。
「永美さん、怪我大丈夫ですか?」
声にせずそう言うと、恒は包帯が巻かれている永美の左腕を指すように、自分の左腕を指した。すると永美は、たった今目の当たりにした恒の気迫溢れるプレーに圧倒され、そんなことはどうでもいいとばかりに右手を振って見せた。しかし永美の顔からはいつの間にか心配の色は消え、秋晴れの日向(ひなた)の木洩れ日のような笑顔が戻っていた。
「試合に集中しろ」
恒がスタンドに向かってニコニコしていると、原田に後頭部をキャッチャーミットで小突かれ、その勢いでダッグアウトの階段を踏み外しそうになった。
「怪我には気をつけろよ」
原田は楽しそうにそう言うと、ベンチ裏に姿を消していった。原田は自分はほとんど一軍に上がる喜びを知らなかったが、自分がボールを受けた後輩たちが一軍に上がって活躍する姿を見ていると、それだけで幸せな気分に浸れた。そして今も、これからまさに一軍の晴れ舞台に羽ばたいていこうとしている未来のエースのボールを受けることに、大きな喜びを感じている。しかも一軍相手に一点も与えていない。それが原田の興奮を更に掻き立てていた。
原田はどうしても自分のバットで恒に先制点をプレゼントしてやりたかった。原田にとって恒は、今まで一緒にプレーして来た選手の中でも、一番好きになれた選手だった。ピッチャーという人種は、どんな時でも自我を押し通そうとする、ある種自己中心的考えの持ち主が多いのだが、恒はまったく逆の性格をしていた。どちらかというと少し内気で、気弱な部分さえもある。いつでも周りの人間に気を配り、自分勝手な行動など頭の片隅にさえ思い浮かばないような男だった。それでいて正義感がとても強く、正しくないことには我先に異論を唱える。原田はそんな恒の真更で純真な性格が大好きだった。そして誰にも増して、恒に一軍の晴れ舞台で活躍してもらいたいと願っていた。

試合は両軍一点も入らぬままに最終回を迎えた。九回表、二軍は七番バッターがあっさりと内野ゴロに仕留められ、これで試合開始から二十五人連続で打ち取られてしまった。そしてもしあと二人凡退してしまうと、打者二十七人目で二十七個のアウトを取られることとなり、それは吉井に完全試合を達成させてしまうということを意味していた。
否応にもプレッシャーがかかるそんな場面、右打席に立ったのは八番の原田。恒の女房役である原田は、この場面ヒットなんかではなくホームランを狙っていた。ネクスト・バッターズ・サークルで入念にすべり止めスプレーをバットのグリップに吹き掛けると、左肘に着けたエルボーガードを締め直し、獲物を狙うコヨーテのように慎重な足取りでバッターボックスに向かった。しかしこの日コヨーテが狙う獲物は、草原を飛び跳ねるか弱い野ウサギではなく、サバンナのマウンドと呼ばれる小高い丘から自分のことをじっと見下ろし、たてがみを南風になびかせている百獣の王ライオンだった。
マウンドに立つライオンも自分がコヨーテに狙われていることを重々承知していた。コヨーテがライオンの目をじっと睨みつければ、ライオンもまたコヨーテの目から視線を逸らすことはない。ライオンは知っていた。このコヨーテさえ仕留めてしまえば、勝負が決するであろうことを。

吉井は初球、ライオンがコヨーテの脇腹に軽いジャブを繰り出すかのように、原田の内角を鋭く抉(えぐ)るシュートを放った。しかし吉井の投球を熟知している原田はそれを読んでいて、コヨーテが軽やかにライオンのジャブから身を交わすようにして、身体すれすれの部分に飛んで来たシュートを平然と見送った。
すると吉井は、この打席の原田には威嚇するための内角球は通用しないと見て取ったのか、次に選択したボールは真中高め一杯に撃ち込む一五〇キロを越すストレートだった。真正面から対峙してしまえば、コヨーテがライオンに敵う術はもはやなく、原田はファールチップを打つのが精一杯だった。

―カウント、1ストライク、1ボール。

次なるライオンの狙いは自分の足元、コヨーテはそう考えた。吉井は外角低めに逃げていくスライダーでカウントを稼いでくるはずだと、原田は予想した。しかし吉井の考えは違っていた。攻撃を仕掛ける前に、まずはコヨーテが前に出て来られないように腰を引かせてやろうと企てていた。吉井が三球目に放ったのは、原田の背中の後ろから曲がってくる大きなスローカーブだった。原田は外角のスライダーを待っていたためにタイミングがまったく合わず、腰砕け状態でファールを打つのが精一杯だった。しかもその打球が三塁側のダッグアウトを直撃した。吉井は最初から分かっていた。原田がへっぴり腰でファールを打つであろうこと。

―カウント、2ストライク、1ボール。バッター・イン・ザ・ホール。

吉井はこのカウントで、少なくとももう一球ボール球で遊ぶことができた。ライオンは確実に仕留めるために、もう一度コヨーテの足許に隙を作らせようと考える。そして選んだボールは、二球目よりも更に高く、内角のボールゾーンに外れるストレートだった。コヨーテは分かっていた。ライオンの目が勝負をもう一球先送りにしようと考えていることを。
原田は吉井が一球ボールを挟むことを確信し、何が何でも四球目は見送ろうと決めた。そして四球目の球種如何で、五球目の平衡カウントでの狙い球を絞ることにした。もしここでストライクを投げられてしまえば万事休す、それは仕方ない。原田はそう自分に言い聞かせ、徐(おもむろ)に足元の土を馴らす。コヨーテは身を低く構えてライオンの出方を待った。
吉井は迫真のストレートをキャッチャーミット目掛けて撃ち込んだ。ズドン、というまるでライフルの銃声のように重厚な音が球場内に響き渡り、一瞬の沈黙が訪れる。コースギリギリの剛速球に、アンパイアは右手を高々と掲げようとした。しかしそれを寸でのところで踏み留まり、顔を左に向けると「ボール」という声で沈黙を破った。この高めのストレートはそれほど際どいコースに決まっていた。

―カウント、2ストライク、2ボール。次は平衡カウントでの勝負球。

コヨーテは一瞬、自分はもうすでに絶命したものだと思った。しかし閉じた目を開けてみると、手足にはまだ自由が与えられている。コヨーテは「しめた」と思った。原田は、吉井が高めのストレートを見せて来たことで、五球目は必ずフォークボールで三振を取りに来ると確信した。ライオンはコヨーテの下顎に狙いを定めていた。
吉井はグラブの中で、人差し指と中指を使ってボールを目一杯に挟み込んだ。伝家の宝刀フォークボールで原田を仕留めるつもりだった。吉井は、原田にそれを予測されていることを知っていた。しかしそれでもフォークボールを投げようとするのは、それほどまでに吉井のフォークを打てるバッターが一軍クラスでも僅かしかいないという証明だった。
ライオンは爪を鈍く光らせて、右の前足をコヨーテの下顎目掛けて繰り出した。しかしその軌道はコヨーテの予測通りで、コヨーテは瞬時に左側に身を交わすと、ライオンの右前足に力一杯噛み付いた。
原田は目一杯バットを振り切った。打球は高々と舞い上がり、今にもドーム球場の天井をかすめそうなほどだった。吉井はしてやられた、と思わずマウンド上で悔しそうに蹲踞(そんきょ)の姿勢を取った。その間も打球はレフト方向へグングン伸びていく。そして打球がレフトスタンドの椅子に当たったバコーンという音が球場内に響き渡ると、一瞬の後に今度は歓声とため息がドーム内に木霊していった。打球はレフトポールの僅か十センチ左をかすめてスタンドに飛び込んでいた。原田の会心の打球は寸でのところでファールになっていた。吉井は思わずドームの屋根に隔てられた天を仰いだ。ライオンは自分自身の奢(おご)りを深く反省した。

―カウント、変わらず2ストライク、2ボール。

コヨーテには分かっていた。いよいよライオンが目を覚ましてしまったことが。こうなったらあとは姑息(こそく)な手を使ってライオンを焦(じ)らしていくしか、コヨーテに残された手段はなかった。ライオンはじりじりと間を詰めて来る。
原田はタイムを要求してネクスト・バッターズ・サークルまで戻ると、滑り止めスプレーをバットのグリップに時間をかけ、入念に吹き掛けた。そしてゆっくりとバッター・ボックスの手前まで戻ると、今度はスパイクの紐を結び直した。こうして時間を稼いで吉井を苛(いら)つかせ、その間に狙い球を絞ろうとした。しかしライオンが動じる気配は一向に見受けられなかった。
原田は迷いに迷った末、やはり基本通りストレートにタイミングを合わせておいて、その上でも他の球種にも対応できるようにしようと考えた。

もしもあの鳥になれたなら



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2009年11月03日 03:57 

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