もしもあの鳥になれたなら第1章 -3-
ない球児はたくさんいる。しかし恒は甲子園とは縁がなくとも、努力がその賜物を生んだのだった。
そのドラフト以来四年目のシーズン、プロでの過去三年間の努力が実を結び、一軍での先発という大役が回ってきた。先発したその試合でこそ打ち込まれはしたものの、その後敗戦処理投手としては着実に結果を出していき、シーズンも残り僅かともなると、遂にリードしている勝ち試合で投げさせてもらえるようにもなった。
二〇〇〇年、このシーズンでは初勝利こそ上げられなかったものの、リリーバーとして監督の期待に応えるだけの活躍を続け、一敗三セーブという成績を残してシーズンを終えた。この数字は決して人に自慢できるような成績ではなかったが、それでも恒にとってはとても意味のある数字だった。過去三年間で何度か一軍に上がったことはあったが、それらはすべて一軍の選手が怪我をして、その穴埋めとして昇格し、十日もすればほとんど投げぬままに二軍に戻るのが常だった。だから一敗三セーブと言えども、少なからず野球史に成績を残せたことが恒にとってはとても嬉しいことだった。
しかしこの年のレグルスは、上位から大差をつけられての三位で終わり、二年連続でリーグ優勝を逃してしまった。首位攻防戦では吉井がスクランブル態勢でブルペンに入るというウルトラC的な作戦を展開したのだが、その甲斐も虚しく首位とは差が開くばかりになってしまい、八月中に早くも優勝が絶望的になってしまった。だがその後消化試合的な試合が続くと、レグルスは急に連勝をするようになった。それは最初の先発登板こそ打ち込まれてしまった恒や、二軍から昇格してきた他の若手選手たちが我武者らにプレーをしたからだった。その結果チームには活気が戻り、もしかしたら奇蹟の逆転優勝もという雰囲気さえも漂い始めた。結局優勝は逃してしまったが、レグルスは来シーズンがとても楽しみになるペナントレースの終え方をした。
その年の秋季キャンプ、恒は徹底的に扱(しご)かれた。それはレグルス首脳陣からの期待の現れでもあり、恒もそれを苦痛と感じることは一度もなかった。それどころか、恒は練習が楽しくて仕方がなかった。毎日一番先にグラウンドに来るのは恒で、一番最後までグラウンドにいるのも恒だった。毎日何かしらの上達を実感することができ、それが心底練習を楽しくさせている。時にはコーチに止められるまで練習をやめないこともしばしばだった。
恒はまだ信じている。高校時代の監督に教えられた「練習は嘘をつかない」という言葉を。恒はそれを信じて日々の練習に励んでいた。
そんなある日、恒は監督の西尾に呼び出された。ベンチ裏の監督室の前まで行くと、恒は帽子を脱ぎ、遠慮がちにノックをして中に入った。監督室の中では西尾と投手コーチの渡辺が、向き合うようにしてカウチに腰を下ろしていた。恒はコーチに促されて横に座ったが、気分は頗(すこぶ)る落ち着かず、さながら蛇に睨まれた蛙といった具合だった。
「そんなに固くなるな。呼び出したのは別に説教をするためじゃないんだから。それとも、何か説教をされるようなことをしでかしたのか?」
西尾は恒の緊張を解(ほぐ)してやるように切り出した。
「いえ、何もしていません。ただ、急に呼び出されたんで緊張しちゃって」
恒は手に持った帽子を持て余すようにして答えた。
西尾はじっと恒の目を覗き込み、そして再び口を開いた。
「平尾、来年の開幕投手の座を吉井から奪い取ってみろ」
恒は西尾のその言葉に少なからず驚きを感じた。というよりは、大いに驚いた。師として仰ぎ、何年間もずっとレグルスの、そして球界のエースとして君臨し続けている吉井と、チームが優勝争いから遠ざかったシーズン終盤になって、ようやく一軍に上がって来られた自分を競わせるとは、恒にしてみればとても正気の沙汰とは思えなかった。何しろ吉井は日本を代表するピッチャーであり、実力も実績も、ほとんど実績ゼロの恒とは比べられないほどだったのだから。
「来年はお前も二十三歳でもう五年目だ。そろそろ開花してくれなくちゃチームとしても困る。それに、吉井はお前の年の頃にはすでにローテーションンの柱になっていた。平尾、だからお前にもそろそろ一皮剥けてもらわなけりゃならん。分かるな?秋季キャンプの最終日に紅白戦を行なう。その試合の先発が吉井とお前だ。エースの座を力づくで吉井から奪い取ってみろ」
恒は虚ろに「はい」としか答えられなかった。頭の中では色々なことが渦巻いている。今まで別次元のピッチャーだと思っていた吉井と競えるだけの実力が自分に付いてきたとは、恒自身にはまだまだ到底考えられることではない。それでも吉井と競わせてもらえるということは、恒にとっては最高にやり甲斐のあることであり、自分のピッチャーとしての成長を、師である吉井に直接見せることができるという点において、少なからずの逸(はや)る気持ちがあった。
その日の練習を終えると、恒は五日市街道にあるカフェを訪れた。いつものように一番奥のB七卓に座り、お決まりになりつつあるヨーグルトレモンとツナサンドを注文した。しかしこの日はあかりの姿はなく、アルトサックスを吹くという丸顔の店長小沼が、忙しそうに店中を往来していた。
恒が野球雑誌に目をやりながらヨーグルトレモンとツナサンドを待っていると、どこからともなくドンドン、ドンドンと何かが叩かれているような不穏な音がした。恒は辺りを見回したが、しかし何ら変哲はない。そして視線を雑誌に戻すと、再びドンドンと何かが叩かれた。窓の方から聞こえて来て、恒はパッと窓の方を向いた。すると黒い帽子を目深に被り、黒いウィンドブレーカーを着込んだ吉井が真っ暗闇の中、まるで明かりを求める蛾のように窓にへばりついていた。恒はその姿に心臓を撃ち抜かれるほど驚かされ、椅子から滑り落ちそうになった。
「練習サボって何してやがる」
吉井は店に入ってきて恒の真向かいに座るなり、尋問をする刑事さながらの鋭い目つきで恒を問いただした。
「サボってなんかいませんよ、ご飯を食べに来ただけです。それより、貴さんこそ何してるんですか?」
「ロードワークだよ。走ってたらお前が店に入っていくのが見えたから、ちょいと寄ってみたんだよ」
吉井は恒に出されていた水を飲み干してからそう言った。
「ロードワークって、貴さんの家ってここからずっと遠くじゃないですか。貴さんの家から走って来たら片道五キロ以上はありますよ!」
チーム練習を終えた後、吉井は本当に十キロ以上走っているのかと、恒は驚きを隠さなかった。
「それがどうした?」
だが吉井は驚く恒にサラリと言いのける。
「チーム練習が終わった後に十キロ以上走ってるってことですか?」
「いいか平尾、エースになるのはそれほど難しいことじゃない。だがな、エースであり続け

2009年10月28日 02:54
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