#99 渡辺久信

#99 渡辺久信 - Hisanobu Watanabe
監督、右投右打
1983年ドラフト1位
群馬県立前橋工業高校~西武ライオンズ~ヤクルトスワローズ
~嘉南勇士(台湾)~埼玉西武ライオンズ
群馬県勢多郡新里村(現・桐生市)出身
1965年8月2日生、185cm / 95kg(本当は104kgらしい)
愛称:ナベ、ナベQ
好きなバンド:イエローモンキーズ
球種:スライダー、フォーク、チェンジアップ、シュート、カーブ
通算成績:125勝110敗27S 1609奪三振 防御率3.67
タイトル:最多勝(86、88、90年)、最高勝率(86年)、最多奪三振(86年)、
ベストナイン(86年)、ゴールデングラブ(90年)、
日本シリーズタイトル:優秀選手(90、91年)、6連勝(86年第6戦~91年第3年・シリーズ記録)
2試合連続完封勝利(90年第1戦~91年第3戦・シリーズタイ記録)
オールスター出場:85~86、88~90、92年・全6回
ノーヒットノーラン:1996年6月11日 vsオリックス
正力松太郎賞:2008年、桐生市民栄誉賞:2009年1月
渡辺久信投手は、前橋工時代から超高校級ピッチャーとして注目された逸材だった。だがコントロールにやや難があるということで、ドラフトでは一歩引いたところでの評価で止まっていた。現にドラフト1位で指名した西武ライオンズも、実は高野光投手を1位指名していて、クジで敗れたために渡辺投手に切り替えたのだった。
筆者はまだ小学校に上がる前くらいだったのだが、この頃の渡辺投手をよく覚えている。ダイナミックなピッチングフォームから繰り出すストレートは、それだけで十分魅力的だった。そしてこの頃の渡辺投手は、ルックスもダイナミックだった。西武への入団会見の際も、まるでビーバップハイスクールのような髪型で登場した。パーマを当てた超リーゼントヘアーで、額には剃りも入っていたような気がする。これには当時のファンも度肝を抜かれたはずだ。入団会見でそんな格好をした選手は、歴史ある日本プロ野球においても恐らく渡辺久信投手と、新庄剛志選手くらいだったと思う。
渡辺投手は入団1年目からしっかりと期待に応えた。ファームではまったくストライクの入らないノーコンピッチャーだったのが、1軍に上がった途端ストライクが入るようになり、成績は1勝1敗だったものの、高卒ルーキーとしては上々の滑り出しだったと言える。
2年目以降は先発に抑えにめきめきと頭角を現し、3年目には最多勝を獲得するまでになった。そしてこの頃から西崎幸広投手(日本ハム)、阿波野秀幸投手(近鉄)、星野伸之投手(阪急)らと並び、球界のトレンディーエースとして女性からの絶大な人気を誇っていた。そして同僚だった工藤公康投手、清原和博選手らと共に『新人類』と呼ばれ、この言葉は流行語大賞にもなっている。この当時は2月のキャンプ期間中『クドちゃん・ナベちゃんのキャンプリポート』というテレビ番組のコーナーを持っており、西武ライオンズというチームの人気を全国区にするグラウンド内外での活躍振りだった。この頃はまだ野球選手がテレビにコーナーを持つなんて考えられない時代でもあった。
とにかく渡辺投手の現役時代の活躍振りは1ページだけではとてもじゃないが収まりきらない。黄金時代のライオンズ投手陣には、東尾修、工藤公康、郭泰源、新谷博、石井丈裕、松沼兄弟ら、そうそうたるメンバーが名を連ねていたが、その中でエースを張っていたのが渡辺久信投手だった。中でも工藤投手は渡辺投手のことを一番評価していて、「今まで27年間現役を続けてきた中で、プロ野球選手としては最高の存在」とまで言わしめている。
そんな渡辺投手も、年齢と共に球威が年々落ち込んでいった。二桁勝利も12勝を挙げた92年が最後で、その後はほとんどのシーズンで負け越している。そして97年、プロ野球人生初の未勝利に終わるとそのオフ、戦力外通告を受けてしまった。
この戦力外通告は12月という極めて遅い時期でのものだった。他球団のトライアウトもすべて終了してしまっていて、プロ野球はすでにオフシーズンに入った中での戦力外通告だった。これには各新聞社が「非情」と書き立て、一面に大きく取り上げていた。しかし西武球団は本音としては戦力外ではなく、トレードで活路を見出そうとしていたようだった。渡辺投手は球団にとっては功労者である。当然無下に戦力外にしたわけではなかった。
だがトレードをするにも、1億円という年俸がネックになり最後まで成立することはなかった。そのためやむを得ず戦力外にしたという形だったのだ。ちなみに戦力外を通告した前日はプロ野球のドラフト会議で、西武は指名した全選手がピッチャーだった。そういう流れもあっての戦力外通告だった。
そしてそのドラフト会議のさなか、ヤクルト野村克也監督に歩み寄る西武の東尾監督の姿があった。東尾監督だけは、この時すでに渡辺投手の戦力外のことを知っていて、野村監督に「ナベの受け皿になって欲しい」と頭を下げていたのだ。東尾監督も、弟同然の渡辺投手の戦力外にひどく胸を痛めていたらしい(東尾監督と野村監督は、西武球団創生期の同僚)。
この時野村監督は「年俸1500万円でよければ考えないこともない」と東尾監督に伝えた。その数日後、渡辺投手はヤクルトと交渉の席を持ち、即ヤクルト入りを決断した。そして年俸は実際には1500万円の倍額、3000万円に決まった。だがそれでも年俸は一気に1/3まで減ってしまった。
野村監督は「長年エースを張る人間は、他の人間にないものを必ず持っている」と言い、プレー以外にも精神面においてヤクルトという若い選手の多いチームに良い影響を与えて欲しいと考えていた。だが98年、1勝5敗1Sという数字を最後に、日本プロ野球での選手生活にピリオドを打った。2度目の戦力外通告だった。
引退会見で一番印象に残っている試合を聞かれ、渡辺投手は89年10月12日の近鉄戦ダブルヘッダー1試合目、ブライアント選手に痛恨の勝ち越しホームランを浴びた時のことを語っていた。これまで渡辺投手は、来日以来ブライアント選手に対し1本もホームランを許していなかったが、この場面だけはブライアント選手の打棒を止めることが出来なかった。ちなみにこのダブルヘッダーでブライアント選手は4打席連続ホームランを打っている。
そして渡辺投手がこのホームランを打たれた直後、ダグアウトに戻ると森監督にストレートで勝負したことをひどく叱責されたらしい。すると滅多に怒ることのない渡辺投手は、グラブをベンチに叩きつけて怒りを露にした。確かに渡辺投手の心情は理解できる。ストレート勝負をするべきでないと分かっていたなら、勝負する前に指示を出すのが当然のことだ。だがベンチからはなんの指示もなく、打たれたあと、結果論だけで渡辺投手は戦犯扱いにされたというわけだ。
もし89年、ブライアント選手に4連発を浴びることなく西武が優勝を果たしていたら、プロ野球史上初の10連覇が記録されていたかもしれなかった。西武ライオンズは85~94年の間で、唯一89年だけ優勝を逃している。
渡辺投手はヤクルトで現役生活を終えると、東尾監督の勧めで台湾球界に渡ることになる。台湾では選手兼コーチとして活躍し、西武時代の同僚である郭泰源・石井丈裕らと共に台湾球界の発展のために尽力した。そして2001年を限りに台湾を離れ日本に戻ると、2002~2003年を評論家として過ごし、2004年、2軍ピッチングコーチとして再びライオンズのユニフォームに袖を通した。
そして2005年には2軍に監督に就任し、2008年はついに1軍監督に昇格した。2007年は26年振りのBクラス5位に終わっていたライオンズを、渡辺監督は1年で見事再建し、就任した2008年に悲願の日本一奪回を達成した。ライオンズが完全優勝を果たしたのは、実に1992年以来のことだった(2004年はシーズン2位で、プレーオフを勝ち抜いての優勝だった)。
渡辺監督は、とにかく魅せる野球を常に意識している。ただ勝つだけではなく、ファンに喜んでもらえるような勝ち方を目指している。そして渡辺監督の下、若い選手たちも伸び伸びとプレーできるようになり、中村剛也選手にしろ、片岡易之選手にしろ、実力が一気に花開いた。
恐らく日本一選手のことを考えてくれている監督だと思う。例えば細川捕手が右ひじを故障し、70%まで回復した状態で実戦復帰をしようとした際、渡辺監督はすぐに出場を取りやめさせた。もし再発させたら今年1年を棒に振ることになり、選手生命の短縮にも繋がりかねないとの理由からだった。「細川はまだ将来のある選手。100%回復するまでは試合には出さない」と断言した。細川捕手の不在が、どれだけチームにとってマイナスかを一番痛感しているのが渡辺監督のはず。それでも監督は、細川捕手の野球人生を最優先に考えた。
渡辺監督はファンのみならず、間違いなく選手からも愛されている監督だと思う。選手も常に考えているはずだ。「監督を男にするために頑張る!」と。特に2軍監督時代から目をかけてもらっていた涌井投手や、怪我や不調で長い間2軍で渡辺監督の指導を受けた帆足投手や星野投手はその気持ちもひとしおだと思う。
2009年7月現在、チームは3位とは言え借金生活と低迷している。しかし渡辺監督を愛する選手たちがこれからどんどん盛り返し、必ず上位に食い込んでいくはずだ。その時のために、ファンもますます熱い声援を送っていかなければならない。今年の秋も渡辺監督の胴上げを見るために!

2009年07月07日 06:22
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