日刊埼玉西武ライオンズ
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投手ランキング
勝利 セーブ ホールド 奪三振 投球回数 登板数 勝率 防御率
1位 涌井(16) 小野寺(16) 星野(22) 涌井(199) 涌井(211.2) 星野(62) 涌井(.727) 涌井(2.30)
2位 (13) 藤田(3) 大沼(15) (138) (179.2) 大沼(54) (.722) (3.26)
3位 石井
帆足(9)
グラマン(3) 岩崎(9) 石井(131) 帆足(163) 小野寺(47) 帆足(.600) 帆足(3.59)
2009年全日程終了 リーグトップ
打者ランキング
打率 本塁打 打点 安打 得点 犠打 盗塁
1位 中島(.309) 中村(48) 中村(122) 中島(173) 中島(100) 銀仁朗(14) 片岡(51)
2位 G.G.佐藤(.291) G.G.佐藤(25) 中島(92) 片岡(153) 片岡(92) 大崎(13) 中島(20)
3位 中村(.285) 中島(22) G.G.佐藤(83) 栗山(152) 中村(91) 片岡(12) 栗山(18)
2009年全日程終了 リーグトップ
予想先発投手
3/20()
ロッテ戦
3/21()
ロッテ戦
3/22()
ロッテ戦
3/27()
楽天戦
3/28()
楽天戦
3/30(火)
ソフトバンク戦
 #18涌井秀章
 16勝6敗 2.30
#47帆足和幸
9勝6敗 3.59
#11岸孝之
13勝5敗 3.26
 #18涌井秀章
 16勝6敗 2.30
#47帆足和幸
9勝6敗 3.59
#11岸孝之
13勝5敗 3.26
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ライオンズ監督列伝~黎明期から黄金時代へ

1978年10月に誕生した西武ライオンズは、今年で創設32年目を迎える。これだけの歴史があり、また毎年のように監督が代わる球団がある中、西武ライオンズというチームを率いた監督はわずかに7人しかいない。故根本陸夫、広岡達朗、森祇晶、東尾修、伊原春樹、伊東勤、渡辺久信の7人だ。そしてこの中の4人が日本一を達成している。

常勝時代を築き上げたライオンズの使命は、パ・リーグを制覇することではなかった。リーグ優勝をするのは当たり前で、日本シリーズで勝ってこそ初めて評価が与えられた。黄金時代のライオンズとはまさに、そのようなチームだった。

だが常勝時代を迎える前、79年シーズンから81年シーズンまでの3年間はまだ低迷状態だった。ライオンズ自体、西鉄後期から太平洋クラブ、クラウンライター時代は長らく低迷していた。そこに78年シーズン、クラウンライターライオンズの球団社長だった坂井保之氏の招聘を受け、根本陸夫が監督としてやって来た。選手の多くが「オヤジ」と呼び慕う人物だ。

根本時代のライオンズは、チームとしての成績は決して芳しくはなかった。初年度は最下位、2~3年目も4位と低迷。だが根本監督は見た目の数字以上のチーム改革を進めた。阪神から田淵幸一選手と古沢憲司選手を獲得し、ロッテからは山崎裕之選手と野村克也捕手を獲得した。その後も根本マジックを駆使し秋山幸二選手、伊東勤捕手、工藤公康投手らを次々と獲得して行った。もし根本陸夫という人物がいなければ、彼らがライオンズのユニフォームに袖を通していたことは決してなかっただろう。

だが3年目を迎えたオフになると、選手の間から不穏な空気が漂い始めた。ベテラン・中堅の選手たちが「根本では勝てない」と考え始めたのだった。その空気を咄嗟に察知した坂井球団社長は、即座に根本監督に報告をした。するとほぼ即断という状態でこう言った。「よし、それなら勝てる監督を連れて来よう」と。懐の広い根本陸夫らしい判断だった。

そして連れて来たのが、広島時代に共に戦った広岡達朗という人物だった。広岡監督の代名詞と言えば言わずと知れた「管理野球」。広岡監督は全選手のすべての行動を管理したがった。そのメリット・デメリットはあったものの、広岡野球がライオンズを常勝時代に押し上げたことだけは確かだ。根本陸夫が築き上げた礎に、広岡監督は見事花を咲かせた。

82年から指揮を執った広岡監督は当初5年契約だった。1~2年目は日本一、3年目は3位、4年目はリーグ優勝と、監督として実に華々しい成績を残した。だが4年目になると球団フロント、つまり根本陸夫との確執が浮き彫りになってくる。根本陸夫はGM的立場として、広岡監督とは違った意向で選手補強を繰り返した。例えば広岡監督は強打のドン・ベイラーを欲しがったのに、根本陸夫が獲得したのはオリエンタルエクスプレスの異名を取った郭泰源だった。その他中継ぎ3人を放出した結果江夏豊投手を獲得したり、根本陸夫は広岡監督の意向に沿わない補強を繰り返した。結果的にその補強は吉と出たわけだが、しかし根本・広岡間の溝は深まるばかりだった。

すると4年目の終盤、広岡監督は痛風を患って指揮を執れなくなってしまった。パ・リーグ制覇した瞬間も広岡監督はその場にいることはできず、そのまま健康上の問題を理由に辞任した。だがこの辞任、表面上は辞任ではあったが、事実上は解任だった。ことあるごとに反発を繰り返し、自らの権限拡大を求めてもはや制御不能となった広岡監督を、根本陸夫が切ったのだった。

その後の根本陸夫は93年からダイエーホークスに移り指揮を執り、当時パ・リーグのお荷物球団とされていたホークスの復興に尽力した。もし根本陸夫がいなければ、工藤公康投手や石毛宏典選手がFAでホークスに移籍することはなかっただろう。だが99年4月30日、根本陸夫は急性心筋梗塞により他界した。享年72歳だった。

この死を受け根本陸夫の意志を継ぐべくチームは奮起しホークスは99年、73年以来のリーグ優勝、そして64年以来の日本一を達成した。そしてホークスのナインたちは日本一を達成した瞬間、根本陸夫の遺影を次々と胴上げして行った。根本陸夫というオヤジは選手からも、ファンからも愛される野球人として2001年、殿堂入りを果たした。

一方の広岡達朗はライオンズ退団後は評論家として活躍したのち、95年にはロッテのGMに就任しボビー・バレンタイン監督を招聘した。95年はボビー・マジックや投手陣の充実によりチームは2位に躍進したが、広岡はこのチームでも不協和音を響かせてしまった。広岡GMとの間に確執があったバレンタイン監督はチームを2位に躍進させながらも、この年限りで解任されてしまった。すると翌年は再び5位に低迷し、今度はチームの3本柱だった小宮山悟投手、伊良部秀輝投手、エリック・ヒルマン投手から不信感を持たれ、GMという職務を2年で返上する結果となってしまった。

今思えば根本陸夫という人物と、広岡達朗という人物は真逆の性格だった。結果的に勝とうとした根本陸夫と、勝つことを最優先にした広岡達朗。人々から愛された根本陸夫と、反感を買ってでも勝利に徹した広岡達朗。西武ライオンズというチームは、まさにこの2人の名将がいたからこそ黄金時代を迎えることができた。

根本だけではダメで、広岡だけでもダメだった。根本がいて、広岡がいたからこそライオンズは強くなることができたわけだ。そしてこの2人が残した礎を、今度は森祇晶という監督が受け継ぐこととなる。

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2010年03月11日 06:46 


小岩ジェッツ

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